庭的アティチュード。
先日、GREEN SPACEの事務所に行き、辰巳兄弟さんにお話を聞かせて頂きました。 (写真左:兄、耕造さん、右:弟、二朗さん)
庭から街、そして文化へと話は展開。 目に見える物質から、目に見えない概念まで。 それらを結ぶのは人工的にデザインされる心地良さ。
生命の律動。 心臓の鼓動、呼吸の間隔、セックスのリズム。 音楽はそれらを再構築するために生み出された。 そう言ったのは確か生物学者の福岡伸一氏だったろうか。
庭もそうである。 自然を美しくリデザインするという意味においては福岡氏の語る音楽と同じ。 そこにあるべき姿としての美。 重ね合わせるように再現する美。 ノイズを排除し、心地良いものをナチュラルに再構築していく。
外向きへ放つ意識と内向きを掘り下げる感覚。 光と影。 庭をカルチャーへと押し上げるムーブメントは既に彼らの手によって動き出している。 この二人が放つ空気、選び方、判断の基準。 何だろう。 しっくりくる言葉を頭の中で探す。
あった。
ようやく見つけた。
庭的アティチュード。
自然であるが、どこか人工的。 植物は絶えず成長する。 言い方を変えれば常に変化し続ける。 庭の手入れは、いつも良質の余白を残しながら心地良い空間を生み出す。 今、二人の持ち合わせている余白。 そして光と水を追い求め、どこまでも成長する。 貪欲に、貪欲に、枝を伸ばし、葉を繁らせる。 重たくなれば、木々を落とし、風通しの良い姿へと形を整えながら。 それは絶えず自らをアップデートする「庭的アティチュード」。
事務所は郡川、緑に包まれた異空間。 GREEN SPACEの看板が見えました。
GREEN SPACEの事務所に到着しました。 社名の通り、まさに「緑の空間」。 山の手からは風が吹き、緑の中をくぐり抜ける。 手を伸ばしたところに四季が躍動する。
そうして、インタビューははじまった。
嶋津「今日はよろしくお願いします」 耕造(辰巳兄弟:兄)「お願いします」 二朗(辰巳兄弟:弟)「お願いします」
生活の中の緑。 嶋津「最近、雑誌の特集などでガーデニングや室内での観葉植物など、緑を目にする機会が増えている気がします」 耕造「確かに、造園業界の垣根を越えて注目されることが増えてきたように思います」 嶋津「以前GREEN SPACEさんのインタビュー記事を読ませて頂いて『緑は質の時代を迎えている』という表現をされていました(参考文献:建築とまちづくり)。 端的におもしろい表現だなって思ったのですが、『質の時代』というのはどういうものでしょうか?」 耕造「一つ前の時代に『緑が少なくなった時代』というものがありました。 経済成長の過程で起きた環境問題の弊害ですよね。 その時に、『緑が少なくなったから植えましょう』という動きがありました。 言わば、どんな緑でも良いという時代です」 嶋津「なるほど」 耕造「でもね、日本って放っておいても緑が増える国なんですよ。 山と川が国の大部分を占めていますから。 わざわざ植樹しなくても森になる」 嶋津「大幅な伐採をしなければ、緑は自然と回復していく」 耕造「そうです。 ただ、手入れもせずにそのままの状態で放っておけば常緑樹の暗い森になります。 シイ・クスノキ・ツバキなどに代表される照葉樹林で覆われた森ですよね。 庭も同じことなんです」 嶋津「と、言いますと?」 耕造「鬱蒼とした森よりも、里山の方が気持ちが良かったりします。 人間の感覚としてね。 つまり、心地良さを求めるならば、ある程度の手入れは必要なんです」
嶋津「緑なら何でも良い、というところからもう一段階動きがあった。 『手入れ』という一手間が質の追求に繋がった、と」 耕造「緑を生活の中へ取り入れる方々の目が肥えてきているというのは確かです。 ただ単に緑を増やせば良いというのではなく、その中の差を楽しみはじめたような気がします」 嶋津「なるほど。 緑と言っても様々な種類がありますもんね」 耕造「そこに緑があるだけではなく、組み合わせ、色、バランスにより印象は変わります」 嶋津「その違いを楽しみはじめたということが、質の時代へ進んだ一歩ということですね?」 耕造「はい。 半分は希望的観測でもあります。 僕たちの肌感覚で感知する部分も確かにありますし、実際にそういう時代になれば良いと思います」 二朗「これまでにも色々な質の時代がありました。 ただ、時代によって求められる質の種類にも変化が見られます」 嶋津「時代によって価値観に変化が起こる、と。 緑への興味が高まるにつれて、差に対する認識が敏感になっていくのですね」 耕造「今ブームの観葉植物などを取り扱う花屋さんと植木屋の僕たちの差なんかを知ってもらえると嬉しいですね」
→vol.2につづく